昭和10年頃?(1935?):チョーサに入る高津屋台

網干型(揖保川流域型)屋台構造の特徴がよくわかる。
1)「隅絞(すみしぼ)り」:灘・飾磨型の伊達綱にあたる。
2)「環(カン)」:隅絞りを固定する金属の環。
3)「咥(くわ)え」(もしくは「外棒(脇棒)持」):外側の棒を固定する
  受け口。
  灘・飾磨型では、このような彫刻が施されることは珍しい。
昭和10年頃?(1925?):本町橋を渡る高津屋台

  木造の本町橋は何度も流され架け替えられている。土手の堤も
  今よりは相当低いのが見てとれる。
  江戸期の網干村は、姫路藩・幕府天領・四国丸亀藩京極家・・と
  所領が混在しており、濱田村も御津富嶋神社の氏子として西の
  村付き合いがあるのと同時に、経済的には東の網干とも近かっ
  た。昭和50年代までは、よく網干警察あたりへも巡行していた。

  画面右端には、先行する西の屋台の姿も見える。
 何人かが着ている「濱」のハッピは村のハッピではなく当時の「濱田
組」が仲仕仕事に使っていた印半纏。
当時の濱田村は、漁師と田仕事と荷役をしている人間しかいなかっ
たわけで、サラリーマンばかりの今とは腕っぷしが違う。
まだ新兵器の「台車」もなく(昭和24年、平松から借り受けたのが最
初。翌年さっそく台車新調している。)蔵から出したが最後、村練り
から宮入りから、すべて練り子の肩の上でしか屋台は動かない。

それほどの力自慢がそろっていても、本宮の帰り、夕闇迫る龍門寺
(苅屋との村境)の前に、お迎え提灯を燈して村の者が待つ頃には、
送りに出てくれた苅屋の若い衆に応援してもらい、やっとのことで担
いで帰ったと聞く。
咥え詳細